今日、闘う労働者、学生、人民の一人一人が、〈生と死〉の問題を真正面から見つめなければならぬ所へきている。資本の絶え間ない鞭と国家権力の公的暴力によって、闘う一人一人の労働者、人民は、一つ一つの闘いで多かれ少かれ自分自身と他人の〈死〉に直面させられるに至っている。この日本の爛熟した「平和と民主主義」、産業の驚くべき発達と支配階級の「繁栄」の下で、労働者・人民が〈死〉を直視しつつ闘わねばならなくなっているということは、闘いが闘いであるためには、もはや中途半端な見せかけだけのものではどうにもならず、根本的な革命への現実の衝動をはらみつつあることの証明でもある。そして、今では、労働者自身が自分の生きた肉体の〈死〉とは何か、という問題を、何か偶然的なこととしてではなく、一般的なものとして提起しつつ闘いはじめているということは、プロレタリアという言葉が百万遍いわれた後で、現実の生きた労働者が、今や歴史の舞台に本格的に登場するための真剣な苦闘を開始しているのだ、ということを意味する。
七〇年安保の序曲としての闘争のはっきりとした開始という意義をもった昨年の一〇・八闘争の直前、或る党派は、「死を賭して」とがなりたててわれわれの同志に「殺してもいいのだ」という凄惨なテロをくわえたが、この党派の下で、山崎君は闘いかつ虐殺された。山崎君の〈死〉は、この党派にとってどんな意味をもつものにされているのか? その〈死〉は彼らの運動にとってどんな位置を占めているのか? この問題は、彼らはいかなる「団結」を追求し、その「団結において生きた個人はどのような意味をもっているのか、という問題である。われわれは、この生きた個人の〈死〉を、あらゆるブルジョア的な諸集団と異ったプロレタリアの団結とは何か、このプロレタリアの団結において生きた個人の〈生と死〉とは何か、という問題として問題とする。
このブルジョア社会においては、或る個人と他の個人は、決して相互におきかえることの出来ない生きた生命をもつ人間として根本的に異る存在であるにもかかわらず、いたるところ取りかえうる等質の存在とされている。資本家は、賃金労働者階級なしには存在できないが、個々の労働者を打ち殺しても存在でき、同じ労働を行う他の労働者をみつければ、全く何事もなかったと同然であり、一人の生きた労働者の〈死〉は資本の運動にとって全くどうでもいいことである。資本家自身はといえば、彼らは自分では、全人格的個性をもって歴史に参加し影響を与えていると思い込んでいるかも知れないが、実際には、資本の運動の感覚と意志をもった表現にすぎず、彼の〈死〉は別の資本家によってうめられ、資本の運動にとっては、彼によって担われるか他の人間によって担われるかは、全くどうでもいいことである。それでも、資本の人格的表現という限りでは、人間一般の代表として、幾人かの政治家、哲学者、「偉大な人物」として歴史上の位置を占めるが、相互におきかえられない労働者一人一人の人格的個性は、賃金労働者にすぎない限りまるで犬の死であるかのように、歴史上何の影響も及ぼさず、何の意味ももたないものへと陥しめられている。「個性」を謳歌しているこのブルジョア社会にとっては、血と肉をもち、それぞれ「異った鼻でしるしづけられている」(フォイエルバッハ)生きた一人一人の個人の〈生と死〉は実際はどうでもいいものにされており、その意味で、血と肉をもった、決して相互に取りかえることの出来ない生きた諸個人は捨象された〈人間一般〉なるものの社会として疎外された共同体であり、一にぎりの人間がその〈代表〉として光り輝く反面、圧倒的大多数の大衆は真黒にぬり込められてしまっている抽象的な共同体である。
しかし労働者大衆の一人一人は、資本に抗する闘争のなかでの団結において、はじめて、他人と取りかえることの出来ない全人格的個性をもった生きた諸個人として歴史に参加する。そういうものとして、この労働者の〈団結〉を通じて、生きかつ死すべきものである諸個人がどうでもいいものとして捨象されることのできない生きた共同体、人間一般という抽象的な共同体ではなく生きた諸個人の統一体としての生きた共同体、「個人の個人としての結合」が生み出されてゆく。何故そうなのかというと、資本の運動、「人間一般」なるものの展開、要するにブルジョア社会という共同体は、大衆の一人一人にとってはどうすることもできない鉄の必然性をもって展開し貫徹するのに反して、この直下において拡大してゆく労働者の団結を通じての結合は、それ自身が新たに生まれ出ようとしている共同体であり、一人の人間が生きようと死のうと、それで共同体の同一性は微動だにしない疎外された共同体と異って、一人の個人が生き、かついかに生き、死ぬ、ということ、また他の個人が生き、かついかに生き、死ぬということが共同体に直接影響を及ぼし、一人の個人の〈生と死〉によって共同体自身もまた現実に異った共同体となるという意味をもつほかにないようにされていることにある。「労働者の団結は資本に抗するための最も重要有力な手段であるばかりでなく、同時に、もっと大切なことだが、労働者が自主的にふるまうための方策ある」こと、そういうものとして労働者の団結が発展せしめられなければならぬことだからこそ、この労働者の結合した手に生産手段をにぎることによって実現される共産主義社会は、「個性の全面的発達をむしろ条件にする新たな協働体」であるほかはなく、そうでない運動は全くうそものの共産主義として弾劾されなければならない! 一人の個人の死は一つの共同体の死を意味し、一人の個人の出生は一つの共同体の出生を意味し、自分がいかにあるかが共同体がいかにあるかに直接影響を及ぼすものとして自分のあり方を決断してゆく真実のプロレタリア運動においてのみ、真の生きた個人の全面的な復活がある。実存主義や実存哲学なるものが、「いたるところ取りかえ得る現存」のなかで、神とか人間一般とかを想像して、それとの対決によって自分のあり方を決断するという特別の「思惟」――これはあり方を変更する思惟として、行為、「内的行為」と呼ばれたりする――によって、「実存」――自分のあり方を自分で決定できる存在――を持ち上げるが、この「実存的思惟」によっては現実世界は微動だにしないということ、これこそ「個人」の洪水の中での個人の喪失というブルジョア社会での想像された世界での個人の復活のためのトンボ返りにすぎぬということ、そして彼らが暗愚の大衆とみなして末世的な厭世感をかきたてられるプロレタリア大衆のしのびよる登場の中に、実は生きた個人の全面的復活が始まっている。ことに気づかぬのだということ、こうしたことにおいて革命的マルクス主義は人間にとっての個人の〈死〉の意味を原則問題のなかに据えつけているものとして復活せしめられなければならぬ。
「死は個人に対する類の冷酷な勝利のようにみえ、またそれらの統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人は、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきものである」(マルクス『経済学哲学手稿』「私有財産と共産主義」)。
プロレタリア運動が、「人間とも思われぬ」光り輝く偉大な人物によって〈プロレタリア一般〉が「代表」されてこれこそが真実のプロレタリアとされ、現実の生きたプロレタリアはこの理想的なものの実体化された化物の肥え太るための屍・しかばね・以外の意味をもたないとされているならば、そして名なもい大衆の個人がこの「偉大な人物」によって時に勝手に持ち上げられるほかには「個人の個人として」は、他の人間と取りかえられることのできない個人として現実には何の意味をもたない所におかれているのならば、それは全くのうそものであり、徹底的にひっくり返さねばならぬ。プロレタリアの革命的英雄主義は、ただ人々の頭の中に長く生き残るかどうかではなく、現実に自分の〈死〉が共同体の運命に直接影響を及ぼすことを知っている無数の大衆の行為であり、そういうものとして、労働者諸個人が自主性を回復するものとしてプロレタリア的団結の運動である。運動の頂点に立つものだけが運動全体の運命にかかわるかのようにあらわれ、大衆はその道具にすぎぬものにおとしめられていれば、その背後には〈死〉に対するブルジョア的態度がある。きたならしい出世主義、大衆物理力主義、勝手な個人の政治的持上げ、坊主主義的使命感、思い上ることしか知らぬ馬鹿者をプロレタリア的団結の推進によって埋葬せよ!
プロレタリアにとって〈死〉とは何か、という問題は確かに今始めて問題になっているのではない。今日のプロレタリア運動は無数の労働者の闘いの中での〈死〉――公然・隠然の――を通してもたらされたものである。それにもかかわらず、今日、プロレタリアにとっての〈死〉の問題が特別な意味をもって提起されているというのは、今日の闘争の状況に関係がある。われわれは今、六〇年安保が〈アジア・太平洋圏〉安保として生み直される時点にある。そして六〇年安保闘争の敗北を通して、まぎれもない労働者が、自分自身の運命をその手ににぎる能力があるということを証明しなければならぬという課題が突き出された。われわれはこの課題と格闘してきた。そして今こそ労働者が世界史にかかわる能力があることを証明する闘争を、闘う労働者にとっての〈死〉の問題に直面しながら闘い抜こうとしているからである。労働者は「世界史的個人」(マルクス『ドイッチェ・イデオロギー』)であるということが、今こそ真正面に据えつけられなければならない。そして、労働者が「世界史的個人」であるということは生きた労働者諸個人の一人一人の闘いにおける〈生と死〉が直接、現実に世界史に影響を及ぼすということであり、そういうものとして、〈万国のプロレタリア団結せよ〉を、生きた労働者個々人の復活をもった真のプロレタリアの団結として推し進めなければならぬからである。われわれは、今日の闘いの中で、プロレタリアにとって〈死〉とは何か、という問題を通して全ての問題を、「世界史的個人」としてのプロレタリアの視点から問題にしてゆかなければならない。この生きた世界史的個人なきプロレタリア国際主義、世界革命、団結等々は空語であり、きたならしい出世主義とその裏面をなす坊主主義をもった小ブルジョアの俗物根性をかくしている。自分自身の運命をその手ににぎる能力のあることを証明しつつ現実の生きかつ死すべきものである労働者諸個人の団結をもってする世界史的登場、これこれが現在の根底に提起されている根本問題である。
(東京『解放』一七号 一九六八年八月五日/『著作集第二巻』所収)